南方熊楠「秘魯國に漂著せる日本人」

 英譯Ratzel,‘The History of Mankind,’1896 vol. i, p. 164. に東西兩半球間過去の交通を論じ、「日本と支那より西北亞米利加に漂著せる人あり。又米國の貨品が布哇に漂著せる例あり。然れども南半球に至りては、高緯度に有て風と潮流が西より南米大陸に向ひ、赤道近くに隨ひ、風潮並びに南米より東方に赴き去り、凡て東半球と南米間に人類の彼此往來有りし確證實例なし。たゞ民俗相似の點多きより推して、曾て斯る交通有たるを知るのみ」と述たり。
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未開の民が、風と潮流に逆うて弘まり行きし例あるは、第十一板エンサイクロペヂア・ブリタンニカ卷二十二、三四頁に、多島海人古へ航海に長じ、其邊の風と潮流主として東よりすれども、時に西よりする事有るを利用し、印度洋島より發程して、遂に遠く多島海諸島に移住せる由を言へり。 Daniel Wilson,‘Prehistoric Man,’1862, ch. vi & xxv. に、南太平洋に太古今よりも遙かに島數多かりしが、漸々海底に沈みし由を論じ、多島海人が往昔航海術に長ぜる記述に及ぼし、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一多島海より南米に移りて秘魯《ペルー》、中米等の開化を建立し、第二に大西洋を經て西印度、中米、ブラジル等に及ぼし、第三にベーリング海峽及び北太平洋諸島より北米に入りし者の如しと説きたり。
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 今東半球の赤道以北よりすら、甞て南米に漂著せる人の絶無ならざるを證する爲に、予の日記の一節を略ぼ原文の儘寫し出す事次の如し。
 明治廿六年七月十一日夕、龍動市クラパム區トレマドク街二十八館主美津田瀧次郎氏を訪ふ。此月六日皇太孫ジョールジ(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚、ビショプスゲイト街、横濱正金銀行支店に往し時相識と成し也。此人武州の産、四十餘歳、壯快なる氣質、足藝を業とし、毎度水晶宮等にて演じ、今は活計豐足すと見ゆ。近日西班牙に赴き興行の後歸朝すべしと云ふ。子二人、實子は既に歸朝、養子のみ留り在り、其人日本料理を調へ饗せらる。主人明治四年十一月本邦出立支那印度等に旅する事數年、歸朝して三年間京濱間に興行し、再び北米を經て歐洲各國より英國に來り、三年前より今の家に住すと云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西印度諸島等の事、大抵予が三四年前親く見し所に合り、氏、秘魯國に往しは明治八年十二月にて、六週間|計《ばか》り留りし内奇事有り。平田某次郎と云ふ人、七十餘歳と見え、其甥三十餘と見えたり。此老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行本邦人十四人有て、毎日話し相手に成し故、後には九分迄本邦の語を能するに及び、此物彼品を日本にて何と言りやなど問たり。兵庫邊の海にて風に遭ひ漂流しつ。卅一人乘たる船中三人死し、他は安全にて秘魯に著せり。甥なる男當時十一歳なりし。
 其後他は盡く歿し、二人のみ殘り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を營み居れりと。老人も以前は手工を營みし由、健全長壽の相有て、西班牙人を妻《めと》れりと。其乘來りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由來を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ。美津田氏一行出立に臨み、醵金して彼人に與へ、且つ手書して履歴を記せしめ、後桑港に著するに及び、領事館へ出せしに、秘魯政府に照會の上送還せしむべしと也。以後の事を聞及ばずと云ふ。一行リマ市を離るゝ時、老人も送り來り、名殘惜げに手巾を振廻し居りしと。美津田氏等桑港に著せし時、在留の邦人纔に三人、領事柳谷と云ふ人親ら旅館へ來訪されたり云々。
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美津田氏は質直不文の人なれど、假名付の小説を能く讀みたり、其談話は一に記臆より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虚構潤色を加る事無しと知らる。又、予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覺ゆるは、件《くだん》の老人に歸國を勸めしに、最初中々承引せず。吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ずと言ひしとか。
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 件《くだん》の美津田氏は、其後二子(共に養子也。日記右の文に一人は實子とせるは謬り也)倶に違背して重き家累を生じ、自ら歸朝するを得ず。更にモトと名くる一女(邦人と英婦の間種、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動《ロンドン》に二三年留り居、予も一二回訪しが、其後の事を知らず。右の日記に書留めたる外にも、種々平田父子の事を聞きたるも、予只今記臆惡く成て、一筆を留めざるは遺憾甚し。近頃柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郎氏明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。因て考るに、美津田氏一行、九年正月中リマを出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後、桑港に著きたるならん。ブラジル、アルゼンチン等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也。
 序《ついで》に述ぶ、右の日記二十六年七月二十二日の條に「美津田氏宅にて玉村仲吉に面會す。埼玉縣邊の人。少時足藝師の子分と成り、外遊中病で置去られ、阿弗利加沿岸の地諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石坑に働き、又ペンキ塗などを業とせし由、ズールーの戰爭に英軍に從ひ出で、賞牌三つ計《ばか》り受用す。予も其一を見たり。白蟻の大※[#「穴かんむり/樔のつくり」、第4水準2-83-21]等の事話さる。日本語全く忘れしを、近頃日本人と往復し、少しく話す樣に成れりと。龍動《ロンドン》の西南區に英人を妻とし棲み、子有りと也」と有り。所謂ズールーの戰爭は、明治十二年の事にて、ナポレオン三世の唯一子、廿三歳にて此軍中蠻民に襲はれ犬死せり。當時從軍の玉村氏廿歳ばかりの事と察せらる。日本人が早く南阿の軍に加はり、多少の功有りしも珍しければ附記す。明治二十四年頃、予西印度に在りし時、京都の長谷川長次郎とて十七八歳の足藝師、肺病にてジャマイカ島の病院にて單身呻吟し居たりし。斯る事猶ほ多からん。[#地から1字上げ](大正元年十月、人類學雜誌、二十八巻)

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